母が死んだ時の覚えがある

「ある。……だが、もうそんな話は止そうよ。」「話したくないことなら、仕方ないが……。まあいいや、そのうち何もかもよくなるよ。実際人に死なれるってことは、嫌なことだ。僕にも母が死んだ時の覚えがある。然し、いつのまにか、遠い過去のことになってしまうものだよ」「…………」 武田は黒ずんだ眼を瞬いて、陰鬱な表情をした。その色艶の悪い痩せた顔が、電燈のだだ白い光を受けて、仮面のように見えた。「凡ては時の問題だ。余りくよくよするものじゃないよ。」「……ない筈なんだ。普通に考えればおかしいよ。」仮面の顔が急に真実になってきた。「然し、君にだってこういう経験はあるだろう。室の中の道具を、他の室に移すとする……例えば、箪笥だとか戸棚だとか、長くいつも同じ場所にあった道具を、俄に取りのける。すると、何気なくその室にはいって、びっくりする。今迄箪笥のあった場所だけが、全く空虚になっている。空虚は、他の何物でも満されない。今迄あった箪笥をもって来なくっちゃあ、到底満されるものじゃない。……分るだろう。」「うむ……。」「それと同じことなんだ。妻が死んでから、僕は、生活が不自由だとか、いろんな思い出の品があるとか、そんなことにはもう平気でいられる。けれど、妻の姿だけのものが……物質的な立体的な……妻の肉体そっくりなものが、僕の周囲で空虚になっているのだ。……空虚と一口に云うが、空虚だって一つの形を取ることがある。妻の姿通りの空虚が、家の中にそこらに動き廻ってる。どんなものを持ってきてもふさげられない……それそっくりのもの、妻の肉体をもってこなくちゃふさげられない、そういった空虚が、家の中にふわりと浮んで動き廻ってるんだ。」「…………」佐野は答えにつまった。「僕は、昔の幽霊なんてものは、結局そういう空虚を指すんだと思う。幽霊を何か実体があるように考えるのは間違ってる。それはただ、一定の形を具えた空虚じゃないかね。生きてた当の人間の肉体そのものでしかふさげられない空虚だ。ただ、眼に見えなくて、感じられるだけのものだが……然し、もし空虚そのものが眼に見えるようになったら……。」「そりゃあ……困る……。」

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