嬉しそうな顔

 ばかばかしいといったような、それでも嬉しそうな顔を、彼女はしていた。「ほんとだ、僕には散歩が一番いい。……じゃあ行ってくるよ。」 そして彼は家を飛び出した。 ――家庭平和だ。俺は妻を愛してる。 ――うまくやったな。 そういう二つの漠然とした思いが、その日一日の遊蕩の予想を、更に愉快なものとなした。

 夕暮の街路――電車が走る、自動車が走る、自転車が走る。通行人の足が早い……。何もかもが行先を急いでいた。 その中で一人、佐野陽吉はぶらりぶらりと歩いていた。 ――まだ少し早過ぎるな。 然しその場合、早過ぎるということは少しも苦にはならなかった。逸楽の予想を楽しむということも、プログラムの中の一つだった。 街路にも店頭にも、一杯灯がともっていた。慌しい中に都会は悠然と、夜の化粧を初めていた。 ――俺の方は腹ごしらえだ。なるべく簡単にそして滋養分の多いものを……。 高い白い天井、行儀よく並んだ真白な卓子、水打った鉢の樹木、その中に彼は腰を下した。定食を避けて、気に入った料理を四五皿、それにビール……。 粗らな客……ボーイ達……それがみな赤の他人の、南瓜を並べたのと同じ頭ばかりだった。がその中で、向うの隅っこの卓から、俯向いてる一つの横顔が、次第にまざまざと浮出してきて……武田啓次……はっきり分った。 ビールのコップを前にして、石のようにじっとしていた。 ――気がつかないのかな。

— posted by id at 10:59 am  

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