何の疑念もなく

「何を感心していらっしゃるの。……行っていらっしゃいよ。つまらないことばかり云って、また坊やが眼を覚すじゃありませんか。」「三界に身を置くところなしか。……行ってくるかな。……どこだろう、一番近くて一番よく海が見えるところは……。」 品川か……大森か……羽田か……そんなことを独語しながら、彼はなおゆっくり構えこんで髯を剃り初めた。 ――海なんかどうでもいいんだ。俺は……いや、そういう風なお前が可愛いいんだ。お前が可愛いいからこそ……。 そんな理屈はない筈だけれど、兎に角彼は、そういう場合の敏子が可愛いかったし、可愛いければ可愛いいほど快活な気分になって、華やかな巷の方へいそいそと出歩いてゆくことが、ぴったり胸におさまった。「夕飯は……まあどっかで済しちまおう。……少し帰りは遅くなるかも知れないよ。」「遅いのはいつものことじゃありませんか。」 何の疑念もなく微笑んでる敏子の眼付に、彼も微笑で応じた。「あ、全くだ。夜遅く、もう電車もなくなった街路《まち》を、ぶらりぶらり歩いてくるのは、実にいい気持のものだよ。お前には分らないかなあ……。」「…………」 分ったとも分らないともつかない、うそうそとした彼女の顔を、その姿を、彼は抱きしめて揺ぶってやりたくなった。それを我慢して、彼女の手を取りながら、踵を浮かし、爪先ですっすっと、ダンスの真似をやってのけた。「いやよ、何をなさるの。」「ははは、一寸ね……。」「柄にもないわ。」

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