偽装自殺

 久美子は声にならない声で悲鳴をあげながら、片闇《かたやみ》になった階段の下へ逃げこんだ。 偽装自殺が成功するかしないかという瀬戸際に、危険をおかしてロッジへ入りこんでくる以上、なにをするつもりなのかわかっている……今朝、石倉がやりかけたことを、大池忠平が完了しようというのだ。 風の中に歌声がある。 カンテラを持って、湖畔を練り歩いている子供達の歌声が、湖の東岸のほうへ遠退いて行く。小さな湖をへだてた、つい向う岸に、三百人近くの人間の集団がキャンピングしているのに、危急を告げることも助けを求めることもできないという自覚は、世にも残酷なものだった…… 大池は腕組みするような恰好で胸を抱き、脇間の扉口のそばに影のように立っていた。ものの十分ほどもしてから、服の袖で額の汗を拭うと、片手で胸をおさえ、壁にすがりながら壁付灯の下まで行ったが、力がつきたように、そこで動かなくなってしまった。「どうかしたんだわ」 久美子の恐れていたようなことは、なにもなかった。 壁付灯の光に照らしだされた大池の正体は、意外にもみじめなものだった。湖岸の泥深いところを歩きまわったのだとみえ、膝から下が泥だらけになり、靴にアオミドロがついている。濡れた髪を額に貼りつかせ、土気色《つちけいろ》になった頬のあたりから滴《しずく》をたらしているところなどは、いま湖水からあがってきた、大池の亡霊とでもいうような、一種、非現実的なようすをしていた。「う、う、う……」 大池は肩息をつきながら、家宅捜索でめちゃめちゃにひっくりかえされた広間の中を見まわし、マントルピースの端に縋って食器棚《ビュッフェ》のほうへよろけて行ったが、曳出しに手をかけたまま、ぐったりと食器棚に凭れかかった。「ああ、誰か……」

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